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細胞が入れ替わる

 人の細胞は日々入れ替わる、という話を聞いてから、最近よくそのことを考えている。
 血液は4ヵ月、骨は3~5年というふうに、各臓器によって周期は異なるけれど、すべてひっくるめるとほぼ6年で何もかも入れ替わるそうである。
 つまり6年で人は別人になってしまうわけである。
 
 息子が幼い頃、「ママー」と言って追ってくる姿が本当に可愛らしくて、その姿を私は今でもよく思い出す。それが中学生になった頃からだんだん変化していき、今では全くの別人のようになってしまった。あの愛らしかった男の子はいったいどこへ行ってしまったのだろう、と考えずにはおられない。
 それが正常な成長過程なのだとわかっていても、あの子がこうなるか、という変わりようにはため息が出るのだった。
 しかし、ああこれは細胞が入れ替わったのか、と思うと納得できる。
 
 赤ん坊の息子をベビーカーにのせていた頃、二歳上の娘はベビーカーのステップのところに立つのが好きだった。その二人が乗ったベビーカーを押して、駅前の楽器屋さんへピアノ教室の申し込みに行った日のことが、なぜか強く印象に残っている。私が子どもの頃に弾いていたピアノを結婚の際に持ってきていたので、娘のレッスンを始めようと思いたったのだった。
 
 あとになって、そのときのことを思い出して、子ども達があの日にもどることはもう決してないのだな、と実感したのである。発見したと言ってもいいかもしれない。時間は進むばかりでうしろにはもどらない。若い頃は前ばかり見ていたのでそんなことを考えたこともなかったのだった。
 その日の私は生成りの七分袖のサマーセーターにグリーンのギンガムチェックのギャザースカートをはいていた。独身の頃から着ていた洋服である。どちらの服も今はもう処分してしまって手元にはない。私自身も細胞が入れ替わって、昔とはかなり変わっているということである。
 
 少し前に現在のジュリー(沢田研二)の写真を見る機会があった。私が小学生の頃に彼はトップスターの座に君臨していた。その頃の私はあまりスターやアイドルに興味がなかったが、当時の映像を見ると、こんなにきれいで魅力のある存在だったのかと今さらながら感動を覚える。もし、今、こういう人がいたらきっと胸が苦しくなるくらい好きになってしまいそうである。
 現在のジュリーはかつての自分について、あれは自分じゃない、親戚の子だ、と冗談めかして言っているということだが、その気持ちはわかる気がする。
 
 時間の流れは容赦がない。私たちは細胞の入れ替わりを受け入れていくしかない。
「時の過ぎゆくままに」この身をまかせていくのである。

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家が好き

 お盆休みはどこかへ行くの? と職場の若い同僚にたずねると、どこも行かずにずっと家にいるという答えだった。彼女は独身でひとり暮らしである。
「わたし、家が好きなんです」
と瞬きもせずに言った。それで休みの間、ずーっと一人で過ごして、それがとても楽しいのだという。
 
 きれい好きな彼女はてきぱきとよく動く人である。おそらく自分の部屋を自分好みにしつらえて、快適な空間を作り出していることだろうと容易に想像できる。気のすむまで片づけて掃除をして自分の好きな物を買い揃えて、妥協することなく、自分の思うように暮らしているのである。
「家にいたい」 
 私も近頃、よくそう思う。用事や仕事で外に出ていても、それらが終わるとすぐに家に帰りたくなる。とにかく一刻も早く家の台所の椅子に座って一息つきたい気持ちになるのである。
 お盆休みの後半の三日間は、息子が旅行に出かけたので全く一人で過ごした。少し風邪気味だったこともあって、何ひとつ予定を入れなかったのである。
 まず家じゅうの掃除をした。不必要なものを捨て、自分の好きなものだけをそばに置き、好きなように物を配置して好みの絵を飾る。思うままに庭先の花をガラス瓶に生ける。誰にも遠慮せずにお気に入りの椅子に座ってやるべきことの時間配分を決める。すっきりと片付いた好きなものだけがある部屋を見ているだけで快適な気持ちになるのである。
 家の小ささや古さは関係なくなる。高価なものもいらない。気持ちに余裕ができるので料理も丁寧にするようになる。たくさんの種類の野菜を使って手をかけて自分の好物を作った。
 静かなほうが私はより自然でいられるのでテレビや音楽は消したままである。身体にも心にも無駄なものがひとつもないような感覚になっているような気がした。
 眠るときはちょっとこわい気持ちがするけれど、二晩めになると少し慣れてくる。おそらくこれが続けば完全な独り暮らしにも慣れていくのだろう。
 
 この快適さは平日にしっかりと働いた賜物である。私にとっては家族が帰ってくることが前提のものだと、その自覚はある。
 子ども達が幼かった頃、年に数回、一人で出かけることがあった。同人誌の合評会や同窓会などで、その時は夫に子どもらの世話を頼み、ここぞとばかりに夜遅くまで母親の役割がはずれた時間を楽しんだのだった。早めに用事が終わったときなどは家の近くのお店に一人で寄ってマスターとの会話で時間を過ごしたものだった。
 その頃は、まだもうちょっとだけ、家に帰りたくないなぁ、と思っていたのである。
 
 状況は変わるものだな、というのが結論である。
 私には三日間くらいがちょうどいい感じだけれど。

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約束の時間

 誰かと待ち合わせをしたときは、時間ピッタリに行くようにずっと心がけていた。遅れることはせず、早めに着くにしても5分くらいの計算で家を出るようにしていた。ちょっと相手を待つくらいが自分でちょうどいい感じだった。
 
 けれど年配の人と約束したときは、たいていの場合待ってもらっていた。それで相手の人がかなり早く待ち合わせ場所に到着しているということに気がついたのである。
 約束の時間を守っているのに、遅刻したような気まずい思いをすることが多かった。待たせるのは申し訳ないし失礼である。それならと、年上の人との待ち合わせのときは30分ほど早く着くようにすると、ちょうどよくなった。
 
 別にいやではないけれど、どうしてそんなに早いのだろう、といつも思っていたものである。
 それが、だんだん歳を重ねてくると、仕事にしても何にしても、「早めに行きたい」という気持ちになってきて不思議なものである。
 電車が遅れたらどうしようとか、おなかが痛くなったらとか、懐かしい人にばったり出会ってしまったら、とかさまざまなことを考えて、かつかつではなく、時間に余裕を持っていたいという気になるのである。
 今はスマートフォンの乗り換え案内という便利なものがある。例えば神戸で夕方6時から会議があるとしたら、30分前に駅に着きたいと思って検索すると、家の最寄りの駅に何時に行けばいいかがわかる。
 駅までは歩いて10分ほどだから、と計算して家を出ればいいのである。
 
 ところが、これもぎりぎりだと途中で何かあったらと不安なので、少し早めに出発することになる。すると早めに駅について一本早い電車に乗れたりする。
 すると次の乗り換えも早くなり、元々の到着設定時間も早いものだから、ずいぶん早く目的の駅に降り立つことになってしまうのである。
 近頃、こういうことがしばしばある。そのまま会場に行ってもいいのだけれど、少し早すぎる気がする。ぽっかりと空いた時間ができてしまうのである。
 こういうときは駅前の商店街を反対方向へぶらぶらと歩いてみたり、わざと遠回りをして知らない道を通ったりする。
 頭の中のスイッチはオフになっていて、別に何かを考えることもせず、おそらく存在感も薄くなっていると思う。ほとんど透明になっているかもしれない。めずらしいお店があれば覗くこともあるし、ああ、こんな表札のこんなおうちがある、などと思いながら街並みを眺めることもある。
 
 この時間に意味があるとは言わないけれど、無駄なものとも思わない。
 そうしている自分を確認しているような、とても微妙な時間である。

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愛しておくれ

 NHKの朝ドラを熱心に見ている。ちょうど仕事に出る前の時間なので、それに合わせて化粧をするようにしている。主題歌の桑田圭祐の声が聞こえるまでにその他の用事を全部済ませてテーブルの椅子に座るのである。
 
 ビートルズの来日公演の騒動が終わって、主人公みね子の幼なじみが再登場し、また新しい展開が期待されるところである。
 今朝の放送で、みね子が想いを寄せる大学生が、ビートルズの公演チケットについて告白する場面があった。
 みね子は熱烈なビートルズファンの叔父のために、なんとかチケットを入手しようと懸賞付きの歯磨き粉を大量に買い込んで応募するが、努力は無駄に終わり、チケットを手にすることはできなかった。
 それを承知の上で茨城から叔父の宗男が上京してくる。居ても立ってもおられずにバイクでやってくるのである。
 大学生の青年のもとに佐賀県の裕福な実家から、父親がつてをたどって手に入れたチケットが届くが、彼はそのことが言い出せない。彼はビートルズにそれほど興味がない。しかし苦労もなくチケットが送られてくる。そういう自分を、「恥ずかしい」と感じるのである。
 
 まさに“はづかし病”で共感できる。結局、彼はチケットを宗男に差し出すが、事情を聴いた宗男は通りすがりの女の子にそのチケットをあげてしまうのだった。
「なんで?」と普通は思うだろう。あんなに行きたがっていたのに。
 当時、チケットを手にできたのは、選ばれた人たちで、その周りにはおびただしい数の選ばれなかった人たちがいたのだろう。彼らはあえてその選ばれなかった人たちのなかに身をおこうと決めるのである。
 しかし、「もったいないなー」と思う。“はづかし病”に対抗できるのは“ひらきなおり”である。
 あえてのあえてで、やっぱりここは行く、というパターンが、他の脚本家ならあったかもしれない。
 
 このドラマに初めから登場している宗男役を演じている峯田和伸という人が、私はずっと気になっていた。
 調べてみると銀杏BOYZというバンドをやっているミュージシャンで、評価の高い演技をする俳優としても有名な人だということがわかった。
 GOING STEADYというバンドで彼が歌う「愛しておくれ」を聞いて、ああ、この人だったのか、と気がついた。繊細でシャイでおおらかで、なんとも言えない魅力のある人である。
 大阪の片隅で日々の生活にまみれながら、ひっそりとファンでありつづけたい、と思える人である。

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毎日がハードル走

 日常というのはハードル走のようだな、と思うときがある。
 ひとつのハードルをぴょんと飛んだら、前方に次のハードルが見える。たどり着く間に準備を整えてそれも飛ぶ。高さはそれほどでもない。普通に飛べるハードルである。そうやって日々が流れていく。

 ひとりの休日で、何にも予定がなかったとしても、おなかが空いたらご飯を作らなければならない。冷蔵庫に牛乳が切れていたら買いに行かなければならない。
 作らなくちゃ、作らなくちゃ、とか、行かなくちゃ、行けなくちゃ、と思うところにハードルが出現しているのである。
 近くのコンビニに行くにしても、寝起きの服を着替えて顔を洗って戸締りの確認をしなければならない。そういえば何かの支払いがあったなと用紙を探しだしたり、ポストに入れる葉書きがあったりする。
 
 中学校のときの体育の先生が、ハードル走を専門にやっている人だった。それで何かの機会に先生がハードルを飛んでいるところを見たのだった。走るスピードをできるだけ落とさず、上体を低くしてその態勢を崩さないままで飛び続ける姿が目に焼き付いている。
 平常心で冷静に自分の脚をコントロールしているようだった。私だったら脚がもつれて気が動転して滅茶苦茶にしてしまいそうだと思った。
 
 先月末に娘が自宅に戻り、顔を上げて自分の前方を見てみると、いくつものハードルが非常に狭い間隔で並んでいることに気が付いた。しかも各地に行って何人もの人に会うのである。
 どれひとつとっても失敗して倒していいものはない。確実に飛び越えなけばならないものばかりである。そのためには綿密な準備も必要だった。
 
 仕事の合間を縫って、神戸で用事を済ませてそのまま四国の徳島行きのバスに乗った。このときは舞子駅での初めての乗り換えがうまくできるだろうかと物凄く不安だったが、ホームページに写真入りの丁寧な案内があり、そのおかげでクリアすることができた。
 またその数日後、福岡からの帰りの新幹線が、架線事故のため途中の相生駅で動かなくなったときは、突然イレギュラーなハードルが目の前に出現したようだった。
 本来なら眠っている間に新大阪駅に着いて夜の9時半には家に帰っている予定だった。それが数時間の足止めのあと、復旧には相当な時間がかかるという放送があった。在来線は通常通りに動いていると聞いたので乗り換えることにした。スマートフォンで調べると、姫路で新快速に乗り換えればなんとか最終電車に間に合うことがわかったのである。
 決断が早かったので払い戻し手続きを済ませてホームに降り立ったとき、まだ人はまばらにしかいなかった。夜の10時をまわっていた。風の吹き抜ける見知らぬホームで、乗り換えの段取りを確認しながら足元が震えているのがわかった。
 
 しかしそれでも12時半には家に帰れたので、線路上での停車に比べると幸運だった。翌日は京都の文章講座があった。そのあと娘の家を訪ねる予定もあった。
 それらをなんとか全部飛び超えて、明日の夜は友人に会いに出かける。半年に一度くらい、近況を報告し合う古い友人で、これがとりあえずのゴールという感じである。
 この約束をしたときは、ここまで無事にたどり着けるのかな、と思ったものだけれど、今はホッとしているところである。
 彼女は誕生日が近いので、早めに出てちょっとしたプレゼントを選ぼうと考えている。
 これは心がうきうきする楽しいハードルである。

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